剥離のようです
- 2 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:17:22.18 ID:hngsorOY0
-
人魚を拾ったので家に連れ帰ることにした。
路傍に倒れていた人魚の肌はかさかさと乾き始めていて、
どれくらい海から離れていたのか判らないけれど、とても弱っているように見えた。
とにかく、水だ。
そう思い、帰宅するや大急ぎでバスタブに水を張った。
なみなみ注がれたその透明な液体にそっと乾いた身体を沈めると、
光る水の中でしろい身体が揺れる。
きれいだった。
飽きることなく見つめた。
どれくらい時間が経っただろうか。
やがて人魚はわずかにくちびるを震わせて、吐息のようなものをこぼした。
- 3 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:18:10.79 ID:hngsorOY0
-
剥離のようです
- 5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:19:42.27 ID:hngsorOY0
-
車道と歩道の中間に横たわる「彼女」を発見したのは、
早朝、配達を終えた帰り道。
蒸し暑い雨とまぶしい晴天が交互に続く季節の出来事だった。
ζ(゚−゚*ζ
波打つ長い髪に桜貝のくちびる、
がらす玉みたいにきれいだけれどうつろな瞳。
青い膚に細かい鱗がたくさん並んでいたので、人ではなく人魚だと判った。
うつぶせに倒れてぐったりしていたけれど
華奢な肩や薄い胸がいかにも頼りなく、
これはこんな処にいてはいけないモノだ、と、とほとんど直感で理解した。
それで、小さなアパートの自室に連れ帰った。
- 6 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:23:17.30 ID:hngsorOY0
-
彼女を抱えて運び込んだ早朝の風呂場は
陽光のせいで妙に白っぽく、なんだかよそよそしく見えて、少し落ち着かなかった。
不変を好む性質なのだ。
ここに置くと決めたものは滅多に定位置から動かさないし、
食事も入浴も毎日決まった時間にする。
この風呂場に足を踏み入れるのはいつも夜になってからだった。
でも、そんな事を言ったら、バスタブに浮かぶこの人魚は
とんでもない「異変」であるはずなのだけれど、
不思議なことになぜか少しも不快ではないのだった。
- 9 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:26:35.97 ID:hngsorOY0
-
人魚はとても静かだった。
喋らないのだ。
一度吐息を漏らしたきり、ひゅう、とか、くう、とか、
.・ ・ ・
あぶくがぷちぷちと浮かぶ時のような小さな音を、時折、咽喉の奥で立てるだけだ。
('A`) 「……」
あんまり黙っているので少し不安になって、おずおずと顔を覗き込んでみる。
人魚は何も言わずに
ただ光を反射するだけの水面のような目でそれを受け止めた。
ζ(゚−゚*ζ 「……」
('A`) 「……」
なんだか安心した。
言葉がなくても気持ちを伝えられそうな気がして、
冷たい水の中にそっと手の平を浸してみると、かすかな水音が風呂場に響いた。
そうして人魚のいる生活が始まった。
- 10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:29:26.28 ID:hngsorOY0
-
さしあたっての問題は食事だ。
人魚というものは一体何を食べて生きているのだろう。
悩んだ挙句、冷蔵庫からミルクを取り出して、
ボウルに注いだものをスプンですくって顔の前に差し出してみた。
ζ(゚−゚*ζ 「……」
人魚は無言で宙を見つめるだけで
何の反応も示さない。
仕方なく、スプンをそっと口元に押し付けてみたら、
どうにかくちびるを湿らせる程度には水分を含んでくれたので
とりあえずはこれで様子を見ることにした。
そのうち何か固形物――海の生き物なのだから、たぶん、貝とか魚とか――も食べる気になるかもしれない。
- 11 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:34:49.52 ID:hngsorOY0
-
それから数日間、人魚だけを見つめて暮らした。
仕事は早朝と夕方に出かければいいだけなので
昼間は丸々人魚の傍にいられるのだ。
ずっと立っているのは疲れるのでイスを持ってきて置いた。
そこに座り、外出と食事以外のほとんどの時間を
ただ人魚を眺めて過ごす。
もちろんきちんと世話もする。
バスタブの水はこまめに取り替えて常に新鮮さを保ち、
朝、仕事から帰ってきた時と、夕食後の一日二回、銀の匙でミルクを与える。
人魚は何も言わずにゆらゆら揺れる。
時々、ぴちゃ、と水音が響く。
人魚は相変わらず喋らなかったけれど、
その音が耳に届くたび、それが何がしかの反応であるように思えて
なんとなく楽しい気分になった。
- 13 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:40:46.85 ID:hngsorOY0
-
人魚の様子が変わり始めたのは
そんな日々を過ごすようになって何日目の事だっただろうか。
ミルクをちっとも飲まなくなってしまったのだ。
今までも決して積極的に飲み下している訳ではなかったが、
全く何も口にしないとなると、もうどうしていいか判らない。
ζ(゚−゚*ζ 「……」
('A`) 「……」
美しい顔がどんどんやつれていくように思えて
ひどく胸が痛んだ。
心なしか変えたばかりであるはずのバスタブの水さえ濁っていくように感じられた。
- 15 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:48:35.58 ID:hngsorOY0
-
('A`) 「……アノ……」
本当は喋るのは苦手なのだが、それでもかなり頑張って、
ぎこちなく聞き取りづらい――とよく人に言われる――声で話しかけてみたりもした。
ミルクは飽きてしまったの?
どうして食べてくれないの?
このままだと死んでしまうよ。
ζ(゚−゚*ζ 「……」
人魚は何も答えない。
やはり言葉は通じないのだ。そう思って悲しくなった。
('A`) 「……」
せめてこの悲しみが彼女に伝わればいい、と思い、
そっと指先を水の中にすべらせる。
ゆっくりと透明な膜に波紋が広がり、タイルの壁に静かに光が反射した。
- 16 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:53:57.49 ID:hngsorOY0
-
数時間ほど粘ってみたがやはり人魚は何も口にしようとしない。
いよいよもって危機感を覚え、
急いで店まで走って行って、生の魚や海草、貝などを買い込んで来た。
それをほとんどすり身状になるまで細かく千切り、
ミルクと同じように匙に乗せて差し出してみる。
ζ(゚−゚*ζ 「……」
案の定、空気を見るのと同じくらい無反応だった。
だがここでくじけるわけにはいかない。
心の中で彼女に詫びつつ、無理矢理にでも食べさせようと、細い下顎に手をかけた。
- 17 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 16:58:17.34 ID:hngsorOY0
-
('A`;) 「……?」
しかし、かたくなに結ばれた口はちっとも言う事を聞かなかった。
かなり力を入れても動かない。
こじ開けようとする手がぶるぶると震える。
('A`;) 「……! ……っ!」
口は開かない。
どうしてだ。だんだん息が荒くなる。
口は開かない。
水面が不穏に波立ちはじめる。
口は開かない。
口は開かない。
口は開かない。
口は開かない。どうしてだ! 腹に何か入れなきゃ君は死んでしまうのに!
腹に入れてやらなければ。
- 19 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 17:05:09.63 ID:hngsorOY0
-
その夜はなかなか寝付けなかった。
ひどい事をしてしまった。
とにもかくにも腹を満たしてやれたのは良かったが、
いくら彼女のためとはいえ、あんな華奢な顔を力任せに掴んで、手荒い真似をして、
嫌われてしまったかもしれない。そう思うとたまらなかった。
布団に包まって自責の念にかられていると、
ぴちゃ、と雫の垂れる音が聞こえてきた。
昨晩までは幸福の象徴のような音だったはずなのに
今夜ばかりは息苦しい雑音でしかない。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
水音は絶え間なく耳に入り込む。
まるで責め立てられているような気分になり、逃げるように布団を頭からかぶった。
- 21 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 17:11:33.12 ID:hngsorOY0
-
('A`;) 「……」
ろくに眠れぬまま朝を迎えた。
それでもずっと避けたままという訳にはいかないから、
まるで子供が親に叱られに行くような及び腰で風呂場に続く扉を開けた。
ふと、違和感を覚えた。昨日までと何かが違う。
その違和感の元に目が行った時、あまりの事に声も出なかった。
ζ(゚ー゚*ζ
一貫して作り物じみた無表情だった彼女が、
天使の彫像みたいに穏やかな微笑みを浮かべている。
なんて美しいのだろう。
それ以外の事を考える間もなく
吸い込まれるようにふらふらと足を踏み出し、
気付いた時には、バスタブの傍らに跪いている最中だった。
- 22 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 17:14:29.22 ID:hngsorOY0
-
('A`;) 「……」
信じられない思いで顔を近づけ、おそるおそる手を伸ばして髪の毛に触れてみる。
しろい額にも。冷たい頬にも。
ζ(゚ー゚*ζ
彼女は嫌がるどころかますます美しい笑みを浮かべた。
ああ、判ってくれたのだ、と思った。
毎日繰り返してきた献身的な身の世話も、
昨夜の、ともすれば暴力的でさえあった酷な所業も、
すべては彼女を思うが故の行動であった事に気が付いてくれたのだろう。
だから心を開いてくれたのだ。
だからこんなに優しく微笑みかけてくれているのだ。
('∀`) 「……!」
嬉しくて、今にも踊り出しそうなほど嬉しくて、
そうしてその時、こちらも同じように気付いてしまったのだった。
彼女を愛している事に。
- 23 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 17:18:20.16 ID:hngsorOY0
-
それから人魚との生活は劇的に変化した。
勿論、傍目から見れば何も変わらない、
ただ仕事に行き、寄り道もせずにアパートに帰るだけの味気ない日々である。
しかし実際はまるで違う。
部屋に帰れば人魚が極上の笑顔で出迎えてくれるのだから、
今までのようにただ漫然と視線を送るだけの毎日とは訳が違った。
ζ(゚ー゚*ζ
('∀`)
言葉は相変わらず通じない。しかしそんなものは必要なかった。
バスタブに手を浸し、彼女の瞳を見つめればそれで何もかも事足りる。
彼女もまた、愛を注ぎ返してくれている事は、
水を通してはっきりと感じていた。
二人は誰も邪魔する者のいないバスルームで何時間でも見つめあい、
微笑みを交わし、胸の内だけで愛を囁いた。
- 41 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 21:55:02.44 ID:hngsorOY0
-
通じ合えるのは何も傍にいる時だけではない。
たとえば夜、布団に横になっていると、暗闇で水音が響く。
ぴちゃ。
・ ・ ・ ・ ・
すると、ああ、ここにいる、と思う。
バスルームから一定の間隔で響いてくるそれは彼女の鼓動であり、
孤独ではない事を知らしめてくれる胎動だった。
夜の黒い水がしたたる音を聞くたび、彼女をとても近くに感じた。
あれほど苦労した食事も問題ではなくなっていた。
そっとおとがいに手をかけてうながせば、人魚は素直に口を開いてくれる。
大騒ぎしたのが嘘のようだった。
この分なら順調に回復して、バスタブの中で泳ぐくらいは出来るようになるかもしれない、
と馬鹿な事を考えたりもした。
泳ぐも何もこのアパートの風呂はとても狭くて、バタ足一つできないのに。
- 43 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 21:59:56.00 ID:hngsorOY0
-
いつか海に行こう、と思った。
こんな無粋な風呂桶と水道から出る水なんかじゃなく、
波の音と潮の匂いのする本物の海。彼女の生まれ故郷で泳がせてやりたかった。
ζ(゚ー゚*ζ
彼女はその思考にうっとりとする。
広くて碧い、二人だけの静かな海原で、手を取り合って泳げたら。
('∀`)
きっと素敵だ。
きっと行こう。約束するよ。
人魚は芯から嬉しそうに笑い、約束は永遠のものとなった。
- 44 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:04:01.30 ID:hngsorOY0
-
幸福な生活もそのまま永遠に続くかのように思われたが、
しかし、終わりは突然訪れた。
その日は夏日の合間の休息のように
じとじとと雨が降っていたのを覚えている。
いつものようにバスルームにいたら
訪問者がチャイムを鳴らしたので、出てみると、世話になっている施設の人だった。
从'ー'从 「お久しぶりです〜」
たしか渡辺とかいう名前だ。
背が低くて、若いのか歳を取っているのか判らない。ピンク色の傘を持っている。
ぷんと香水の臭いがして、それが少し嫌だった。
从;'ー'从 「……あっ……あの〜、ど、どうですか、最近は?」
('A`) 「……エエ、マア」
非常に曖昧模糊とした質問をされたので、ぼそぼそとあたりさわりのない返事をした。
早く玄関を閉めてバスルームに戻りたかった。
- 45 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:10:59.87 ID:hngsorOY0
-
从;'ー'从 「あのっ……ですね、き、近所の方から苦情が来てるって、
……うっ……い、異臭がするから調べてくれって、施設の方に連絡頂いたんですね〜?
それで……ゲホッ! おえっ!」
何を言っているのかよく聞こえなかった。
渡辺は話しの途中で、急いでバッグからハンカチを取り出して口元に当てた。
顔色が悪い。様子が変だった。
从;'ー'从 「あ、あなた、何やってるんですか!?」
何をやっているのか、とは、一体どういう質問の仕方だろう。
用事があって来たのなら早く済ませて帰って欲しいのに。
从;'ー'从 「この臭いは何!? どうしたらこんな臭い出せるのよ!
ゴミでも拾って溜め込んでるのかしら……」
('A`) 「……」
何を言っているのか判らなかったので、何の事ですか、と訊いたら、
信じられない物を見るような目で見られた。
- 47 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:19:35.46 ID:hngsorOY0
-
从;'ー'从 「……ちょっと家の中見させてもらいますね」
言うが早いか、渡辺さんは勝手に上がって来ようとした。
もちろん、ギョッとした。
なんて非常識な人間だろう。
そりゃあ施設には色々と世話になっているけれど、
だからと言って住人の了承もなしに部屋に上がり込んでいいはずがない。
精一杯毅然とした声で、やめてください、困ります、と言ったのだが
渡辺さんは聞かなかった。
不快そうに寄せた眉根を隠そうともせず、ハンカチを口に当てたまま
どすどすと無遠慮な足音を立てて部屋中を歩き回る。
从;'ー'从 「あのねえ、ゴミ屋敷とか、そういうの本当困っちゃうんですよお。
私の監督不行き届きって事になっちゃうんですからね〜」
ぶつぶつ言いながら渡辺さんはそう広くない部屋を何度か見回し、
何もないわね、と首をかしげた。
- 48 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:23:23.60 ID:hngsorOY0
-
そのまま帰ってくれればいいのに、
渡辺さんはあろう事か人魚のいるバスルームにまで捜索の手を伸ばそうとした。
徹底的に調べるつもりのようだ。
('A`;) 「!」
慌てて制止しようとしたが一歩遅かった。
ほんのわずかな差で、渡辺さんが先に風呂場に繋がる扉に手をかけてしまった。
しかも、その不審な行動が「ここだ」という確信を持たせてしまったらしい。
他愛ないとでも言いたげな顔でニヤリと笑う。
从'ー'从 「ひょっとして犬か猫でも拾って来ちゃったんですかあ?
でも駄目ですよう。ここはペット禁止です〜」
勝ち誇ったようにそう宣言しながら、渡辺さんはバスルームのドアを開けた。
そしてそのまま動かなくなった。
- 50 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:31:28.94 ID:hngsorOY0
-
きょとんとした目で、口は半笑いをへばりつかせたまま固まり、
え? とも、誰? とも言わない。
驚くのも無理はない。犬猫ならともかく、何しろ人魚である。
加えて、彼女はこの世のものとは思えないほど美しいのだから、
見惚れてしまっているのかもしれない。
そう思うと何となく誇らしくなり、
奇妙な優越感のようなものを感じながら
突っ立っている渡辺さんのわきをすり抜けて風呂場に入った。
('A`) 「……」
ζ(゚ー゚*ζ
バスタブの縁に浅く腰かけ、目線を送ると、人魚はふわりと笑って応えてくれる。
恋人なんです。
もう隠しておく事もないだろう。
そう思い、彼女と見詰め合ったまま、渡辺さんに向かってはっきりと言った。
少々照れくさかったが、圧倒的に幸福だった。
- 53 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:34:03.34 ID:hngsorOY0
-
すると渡辺さんは、その一言で呪縛が解けたみたいにびくりとたじろぎ、
ニ、三歩後ろに後ずさった。
そして、
从'ー'从 「ぎ」
錆び付いた歯車のような音をしぼり出し、
次の瞬間、聞いた事もないような物凄い絶叫を部屋中に響き渡らせた。
('A`) 「……」
この人はどれほど常識がないのだろうか。
人の家に勝手に上がりこんだ挙句、彼女の前で下品な悲鳴など上げて、
本当に失礼な人だ。
- 56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:38:19.94 ID:hngsorOY0
-
耳障りな音から彼女を守るべく、彼女の背後に腕を回した。
そっと手の平で耳を包み込むようにして頭を傾けさせ、肩に寄りかからせる。
こんなに騒がしくして、
かわいそうに、怯えさせてしまったね。
怖くないよ。
大丈夫。
そんな仲睦まじい恋人同士の様子を見て
なぜか絶叫の音量はますます上がった。
金切り声を上げて手足を振り回し、髪を振り乱しながら
後ずさりを続け、廊下に背中が突き当たった処で、渡辺さんは視界から消えた。
玄関から飛び出して行ったようだ。
声が小さくなっていく。
やれやれ、やっと帰ってくれた、と思った。
- 58 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:44:02.13 ID:hngsorOY0
-
しかし、こうなってしまっては
今までのように彼女をここに置いておくのは難しいだろう。
あの狂気じみた騒ぎようからして
渡辺さんが人魚の事を秘密にしておいてくれるとは到底思えなかった。
だがもうそんな事はもう関係ない。
鎖骨のあたりに確かに感じる、この冷たい体温と重さだけが全てだった。
どんなものからも守ってあげる。
だから君は、何にも心配しなくていいんだよ。
ζ(゚ー゚*ζ
そう囁きながら髪をなでると、人魚は淡い花のような笑顔を浮かべて見せてくれた。
なんて健気で、いじらしい。
美しい君。
心から君を、
愛しているよ。
- 60 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:46:15.97 ID:hngsorOY0
-
('A`) 「……」
ふと、頭に添えていた手の平を見る。
指に髪の毛がごっそり絡みついていた。
- 63 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:54:31.81 ID:hngsorOY0
-
――――……
――――――――……
――――――――――――……
――――――――――――――――……
長い話が終わった。
しかし聞き手である男達はしんと静まり返り、何の反応も示さない。
そっちが話せと言うから話してやったのに、と、その無反応が不満でこっそりため息を吐く。
喋るのは苦手だと言ったのに。
簡素なつくりの部屋は狭く、
男達が発する張り詰めたような空気が充満していて、とても息苦しかった。
一体どうしてこんな処にいなくてはならないのだろう。
早く人魚の顔が見たかった。
相変わらず男達は押し黙ったままだったので、
仕方なく、またこちらから口を開いた。
- 65 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 22:58:58.85 ID:hngsorOY0
-
話は終わりです。もういいでしょう。人魚の処へ行かせてください。
食事を与えてやらないといけないんです。
水を替えて、ミルクを飲ませて、ずっと傍にいてやらないといけないんです。
彼女はどこにいるんですか。
引き離したりしないで下さい。
ああ、かわいそうに、彼女が淋しがっている。
何って、どこにいたって彼女とは繋がっているから判るんですよ。
ほら、今の音。聞こえたでしょう?
涙がひとつぶこぼれるような。
夜が凝って露を落とすような。
あれは彼女が呼んでいるんです。
ぴちゃ、と。
- 66 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:03:45.51 ID:hngsorOY0
-
――――――――――――――――……
――――――――――――……
――――――――……
――――……
ささくれ立った気持ちを振り払うように
わざと靴音を立てて廊下を歩いて行くと、喫煙所には先客がいた。
白衣を羽織り、牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけた男が
備え付けの長椅子に腰掛けて、のんびり煙草をふかしている。
(-@∀@) 「やあギコさん。取調べはどうだった」
男はギコに気付くと軽く片手を持ち上げた。
(,,゚Д゚) 「どうもこうもねえよ、全く」
ギコは無愛想に応え、白衣の男の横にどすんと腰を下ろした。
- 68 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:06:12.92 ID:hngsorOY0
-
とにかく早く煙草が吸いたかった。
あの取調室に充満していた、べたべたとまとわりつく湿気にも似た「何か」を
煙の臭いで消し去ってしまいたくて、
ギコは無言で煙草に火をつけ、味わう前に紫煙を吐き出す。
近頃はどこもかしこも禁煙禁煙で嫌になる。
昔、新人だったころ、捜査のイロハを叩き込んでもらった先輩刑事などは、
「煙草の煙は魔よけになる」などと嘯きながら
現場だろうが署内だろうが常にくわえ煙草で通していた。
あれはあながち冗談でもなかったのかもしれないと
十年経ってギコは思う。
(,,゚Д゚) 「……はあ」
(-@∀@) 「何だい、疲れてるね」
(,,゚Д゚) 「疲れもする。何なんだあの野郎はよ」
ギコは先ほどまで一緒にいた男の顔を思い出し、
犬のようにぶるりと頭を振るわせた。
- 70 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:12:24.52 ID:hngsorOY0
-
(-@∀@) 「うふふ、相当変わった『王子様』だったみたいだねぇ」
(,,゚Д゚) 「……王子様ァ?」
(-@∀@) 「『人魚姫』の恋人といえば『王子様』だろう?」
人魚姫。
一人暮らしの男性の家から死体が発見された事件は
すでに署内に知れ渡っている。
もちろん、彼が連行される直前に、
まるで生きているものを相手にするように死体を『人魚』と言い表し、
恋人を自称した事が原因である。
ギコは今までその男を相手に詳しい話を聞いていたのだった。
ほんのわずかな時間ではあったが、
男の頭が完全にいかれているという事だけはしっかり判った。
というか、それしか判らなかった。
男の言う事は荒唐無稽でギコには全く理解できず、ひたすら気持ち悪さだけが残った。
(,,゚Д゚) 「……アンタならあいつと気が合うんじゃねーの、変人朝日センセ」
呆れたようなギコの眇目を受け流し、朝日はえへえへと笑った。
- 72 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:17:40.81 ID:hngsorOY0
-
(-@∀@) 「あ、そうそう。人魚姫の指紋がね、例の行方不明被害者と一致したって」
(,,゚Д゚) 「そうか。やっぱり楓れいだったか」
(-@∀@) 「盛岡は何て?」
(,,゚Д゚) 「変わらずだ。殺してないの一点張り」
(-@∀@) 「じゃ、嘘じゃなかったって事だね。盛岡は楓れいを殺していない。
彼女が死んだのは王子様に拾われてからだ」
変人で有名な朝日は、しかし一流の腕を持つ監察医である。
彼の慧眼のおかげで解決した事件も少なくない。
(,,゚Д゚) 「死因が判ったのか」
ギコはようやく真面目に話をする気になったらしい朝日に期待して
身を乗り出した。
- 74 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:19:58.26 ID:hngsorOY0
-
それは奇妙な事件だった。
一月ほど前、楓れいという名の若い女性が行方不明になったのが発端だ。
結論から言うと、女性は交際していた男の部屋で監禁されていた。
余罪をごっそり抱えた盛岡という性質の悪い男で、
きっかけはほんのささいな口論だった、と、後に彼は供述している。
しかしその痴話喧嘩は口だけでは終わらなかった。
彼はチンピラにふさわしい短気さであっという間にキレてしまい、
彼女は家に帰る事を許されず、三日間殴る蹴るの暴行を受け続けた。
- 76 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:24:47.74 ID:hngsorOY0
-
そして四日目、絶対に警察に訴えてやる、と脅された盛岡は
所持していた薬物を女性に投与した。
記憶が消えればいいと思ったそうだ。
多量の薬によって女性は意識が混濁し、やがて動かなくなった。
いつまで経っても女性が目を覚まさないので、
彼は自失した女性を車に乗せ、適当な処で放り捨てた。
もうなんか面倒臭くなったらしい。隠そうとかごまかそうとか、そういう意思すらない暗愚な行動だった。
当然というか、その直後に盛岡は逮捕され、
これで事件は一件落着となるはずだったのだが――
動けるはずのない楓れいはなぜか忽然と消えていた。二度目の失踪をしてしまったのである。
- 77 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:30:00.89 ID:hngsorOY0
-
(-@∀@) 「王子様はどういう供述を?」
朝日は訊ねながら腕を伸ばし、半分ほどになった煙草を灰皿でもみ消す。
(,,゚Д゚) 「道に倒れていた被害者を拾って、家に連れて帰った。
素直にそう吐いたのはいいんだがな。理由が『人魚だと思った』って何だよ。
意味が判んねえよ。何だよ、ハダが青かったからとか、ウロコが並んでたからとか」
野郎、ワケ判らん事ばっかり言いやがって、と
ギコは苛ただしげに付け加えたのだが、それを聞いた朝日は事もなげに呟いた。
(-@∀@) 「青い膚に……鱗……ああ――擦過傷の事かな」
(,,゚Д゚) 「……は?」
(-@∀@) 「あったんだよ、アスファルトで擦ったような細かい傷が無数に。
腐敗が進んで判りづらかったけど、まあ、下半身は水の中だったから、どうにかね。
彼女、意識がない状態で、しかも衣服は剥ぎ取られてほとんど全裸だったんだろう?
それで車から突き落とされたら、そりゃつくだろうね擦過傷」
彼にはそれが鱗に見えたのかもしれないね、と朝日はゆっくりした口調で続けた。
- 79 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:34:53.66 ID:hngsorOY0
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(,,゚Д゚) 「お……おお」
(-@∀@) 「で、青い膚というのは、暴行を受けた時の痣じゃないかな。
殴られて間もない時だったら、よりくっきり内出血の跡が出てたと思う」
(,,゚Д゚) 「おお……」
ギコは胸中で舌を巻いた。
人魚を拾ったなどという、ふざけているとしか思えなかった、しかしその割には
異様な熱と真実味を帯びていて不気味だった男の話が、
朝日のおかげでみるみるうちに慣れ親しんだ現実のものに置き換わっていく。
確かにそう言ってくれればギコにも現実的な情景が想像できた。
(,,゚Д゚) 「伊達に毎日死体切り刻んでないなセンセイ」
(-@∀@) 「はっはっは、いやだなぁ、もっと褒めてくれてかまわんよ」
朝日は得意げに笑いながら二本目の煙草に火をつけた。
- 80 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:39:03.02 ID:hngsorOY0
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変人と称されようと気に留めず、
年下のギコを親しげにギコさんと呼ぶこの柔和な中年男は、実はかなりの切れ者だ。
というか、いつもへらへらしているからつい横柄な口を利いてしまうが、
実際権威と呼ばれても全くおかしくない人物なのである。
(-@∀@) 「でも、車じゃ結構目立ったろうに、目撃者とかいなかったのかな?」
(,,゚Д゚) 「ああ、それは今調べてる処だが、何しろ早朝だったからな」
ギコはようやく人心地ついた面持ちで煙を吐き出し、
投げ出していた足を組んだ。
(,,゚Д゚) 「毒嶋独男――センセイの言う『王子様』の仕事は朝夕の新聞配達で、
被害者と遭遇したのは夜が明けて間もないころだったらしい」
(-@∀@) 「確か一人暮らしだっけ?」
(,,゚Д゚) 「数年前に母親を亡くしてから天涯孤独だ。
それで、若者の自立を手助けする、とかいう社会福祉施設が
アパートや仕事の世話をしてやっていたそうだ。通報してきたのは渡辺というそこの職員で……」
朝日の視点を介せばあの意味不明な話を解読できるかもしれない。
そう思い、ギコは取調室で語られた毒嶋の告白を
かいつまんで朝日に話して聞かせた。
- 82 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:44:41.34 ID:hngsorOY0
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話を聞き終えると、朝日は長く細い煙をふぅと吐き、
(-@∀@) 「なるほどね」
とうなずいた。
(-@∀@) 「僕も監察医になってそこそこ経つけど、
いや、あんな独創的な遺体を見るのは初めてだったからねぇ。
まあでも、これで大体は納得がいった」
(,,゚Д゚) 「何だよ、一人ですっきりした顔すんなよ。そうだ、被害者の死因は何だったんだ?」
ギコが詰め寄ると
朝日は眉毛の角度を落としてちょっと困ったような顔をした。
(-@∀@) 「死因はねぇ……ギコさん怒るだろうから直接言いたくなかったんだけど」
(,,゚Д゚) 「だから何なんだよさっきから。いいから早く言え」
(-@∀@) 「じゃあ言うけど。僕は低体温症じゃないかと思う」
(,,゚Д゚) 「……低……? 低体温症って」
ぽかん、としたギコの顔を見て、朝日は一転、悪戯小僧のような笑みを浮かべた。
(-@∀@) 「うん。いわゆる、凍死だね」
- 83 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:48:18.89 ID:hngsorOY0
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ゆらゆらと立ち上る煙以外、しばらく何も動かなかった。
(;゚Д゚) 「……ばっ……馬鹿な事言うんじゃねぇよ。
今何月だと思ってんだ、外じゃセミ鳴いてんだぞゴルァ!」
(-@∀@) 「あはははは、やっぱり怒った」
(;゚Д゚) 「呆れてんだよ!」
思わず椅子から立ち上がりそうになったギコを
片手でひらひら制しながら朝日は笑う。
(-@∀@) 「まあまあギコさん、
僕だって非常識な事を言っているのは充分判ってるけど、
そもそも状況が非常識なんだから」
ギコは獣のような声でうめき、
煙草を持っていない方の手で頭を抱えた。
(,,゚Д゚) 「もう判らん。意味が判らん。こっちの頭がおかしくなりそうだ。
いくら朝日センセイでもそりゃねぇよ。
夏に凍死ってありえねぇだろ」
- 84 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:54:33.26 ID:hngsorOY0
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(-@∀@) 「そうでもないよ。
低体温症は、別に物凄く寒い処じゃなくてもなるもんだから。
夏山でも条件が悪ければ凍え死ぬ事はある」
(,,゚Д゚) 「被害者は登山者じゃねぇだろうが」
(-@∀@) 「でも水に浸かっていた」
ギコは顔を上げた。
(,,゚Д゚) 「……いや、でも、そんな……水に浸かってたくらいで……」
(-@∀@) 「王子様は人魚姫のために
毎日せっせとバスタブの水を取り替えてやっていたんだろう?」
眉毛を片方持ち上げて、朝日はギコに確認する。
相変わらず悪戯っぽい表情を浮かべてはいたが、もう目は笑っていなかった。
(-@∀@) 「一ヶ月前なら、水道水の温度は今の時期よりだいぶ低い。
ざっと浴びるだけならそれほど冷たく感じないかもしれないけど、
何十時間も浸かりっ放しじゃそりゃ冷えるよ。体温はどんどん下がっていく。
夜にはもっと寒くなるしね」
なめらかに話し続けながら、朝日は指の間に挟んだ煙草を叩いて灰を落とす。
ギコは自分の煙草がほとんど灰になっているのに気が付いて
慌てて同じようにした。
- 85 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/19(月) 23:58:48.41 ID:hngsorOY0
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(-@∀@) 「彼女は風呂場で縛られていた訳でも、閉じ込められていた訳でもない。
プールなら、寒くなったら水から上がればいいだけだけど……」
(,,゚Д゚) 「被害者は薬で意識が混濁して、自力で立ち上がる事もできなかった……」
(-@∀@) 「助けを求める事すらできなかったんだろう。
ただでさえ低体温症になると意識が朦朧とするからね。
くわえて、それまで受けた暴行により、彼女はひどく衰弱していた」
(,,゚Д゚) 「それで、体温が維持できなくなって……死亡した、のか」
ギコは呟き、神妙な目を伏せて床に見つめた。
もしも、被害者が茫洋とした中で自身に起こった事を正しく理解していたとしたら、
彼女は一体どういう心境だったのだろう。
身体は言う事を聞かず、何か言いたくても声にならない。
そうして冷たい水の中に浮かべられて、ニ、三日かけてじわじわと死んでいく……。
嫌な想像をしてしまったギコは、
ふと、現場で見た光景を思い出して顔を戻した。
(,,゚Д゚) 「じゃあセンセイ、あの腹の傷は何だ?
俺は現場で死体見た時、てっきりあれが死因かと思ったんだが」
- 86 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:01:37.28 ID:IQYIh8480
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毒嶋独男のバスルームで発見された被害者の
白く膨れた腹部には、縦にまっすぐ切り裂かれた跡があった。
盛岡は楓れいを暴行する際、刃物は使用しなかったと言っている。
つまりそれは彼女が二度目の失踪をした後にできたものという事になる。
(-@∀@) 「あれは違うね。被害者が生きている時の傷じゃなかった」
(,,゚Д゚) 「毒嶋が死体に刃物を入れたって事か? 何だってそんな真似を」
毒嶋独男は『人魚』を恋人として大切に扱っていたはずである。
傷つける理由が見当たらない。
(-@∀@) 「判らないかい? 彼はちゃんと君に話しているじゃないか。
拾ってきてから数日したら、人魚が突然ミルクを飲まなくなった、って」
あ、とギコは小さく声を漏らした。
- 88 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:04:44.19 ID:IQYIh8480
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(-@∀@) 「たぶん、彼は彼女が死んだとは思わなかったんだろう。
被害者は拾われてから一言も喋らなかったし、ずっと動かなかったんだからね。
しかし、わずかな食事さえも摂らなくなってしまったとあっては大問題だ。
このままでは愛しい人魚が飢え死にしてしまう」
とうとう実力行使に出るものの、彼女はかたくなに口を開こうとしない。
それは拒絶のように思えたかもしれない。
死後硬直、なんていう事は、彼には思いつきもしない。
――どうしてだ! 腹に何か入れなきゃ君は死んでしまうのに!
思い余った彼は台所に取って返す。
包丁を取りに行くためだ。
口が開かないのなら
腹に直接入れてやればいいのだ。
腹に入れてやらなければ。
- 90 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:10:45.87 ID:IQYIh8480
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(-@∀@) 「そうして、切り開いた胃に食べ物をいっぱい詰め込んで、彼はきちんと元に戻した。
裁縫用の針と糸で縫ったみたいだね。探せば家にあるだろう。
……僕もギコさんから話を聞くまでなぜあんな事をしたのか判らなかったけど、
彼は人魚姫のために必死だったんだよ」
(,,゚Д゚) 「……」
(-@∀@) 「死後硬直は翌朝には解けている。
もしかしたら筋肉の弛緩のせいで微笑んでいるように見えたのかもしれないが、
何にしろ、人魚の顔を見た瞬間、彼は二人の間に愛情を確信した」
それから十数日間、男は人魚と蜜月を過ごす。
落ち窪んだ眼窩を見つめ、干乾びたくちびるに愛を囁く。
彼女は何も語らない。
しかし、彼には確かに彼女の言葉が聞こえていた。
男にとって、彼女は腐乱死体でも、哀れな被害者女性でもなかった。
ゆっくりとろけて落ちていく肉も、
日ごとに増す悪臭も、彼には何の関係もないものだった。だから少しも気にしなかった。
男の目に映る彼女はいつまでも美しい、
清らかな水に棲まう人魚のままだったのだろう。
- 91 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:14:45.64 ID:IQYIh8480
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(,,゚Д゚) 「……」
ギコはほぼフィルターだけになった煙草を灰皿めがけて放った。
そんな風に、自分の何もかもを投げ出して、
普段なら当たり前に感じるはずの“現実”すらも投げ打って
一つの存在を愛し抜くなどという事が、果たしてできるものだろうか。
それはある意味でとても幸福な事のように思えた。
現に、取調室で彼女について語る時、
男はとてもしあわせそうだった。
(-@∀@) 「ギコさん。まさか彼が羨ましいだなんて思っちゃいないだろうね」
不意に朝日にそう言われ、ギコはなぜかぎくりとした。
- 92 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:18:32.21 ID:IQYIh8480
-
(;゚Д゚) 「な、な訳ねぇだろゴルァ。何で俺が奴を羨まなきゃなんねぇんだよ」
(-@∀@) 「ならいいけど、ギコさん頭固いからなぁ」
(;゚Д゚) 「何だそりゃ、馬鹿にしてんのか。
固いならいいじゃねぇかよ。絶対にあんな風にはならないって事だろ」
・ ・ ・
(-@∀@) 「柔軟な方が揺らぎには対応し易いんだよ。建物と同じ」
あんまり大きな揺れに遭うとぽっきり折れて戻れなくなっちゃうからね、と、
朝日は冗談と本気ともつかない口ぶりで言った。
(-@∀@) 「たとえば美人の人魚を拾うとかね」
(,,゚Д゚) 「……毒嶋も、そうだったってのか?」
(-@∀@) 「さぁ、どうだろう? 僕はそっちの方は専門じゃないから判らない。
どっちにしろ精神鑑定は必要だと思うけど」
- 95 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:24:35.32 ID:IQYIh8480
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朝日は短くなった二本目の煙草を深く吸込んだ。
時間をかけてゆっくりと煙を吐き出し、吸殻を灰皿に捨てる。
(-@∀@) 「人間なんて、文字通り一皮剥けばみんな同じだけどね。
正しい現実とそうじゃない現実の境目となるとそうはいかない。
それこそ紙一重だよ。
ぺろりと剥がれた向こう側に何があるかなんて、そんなの本人にも判らないさ」
(,,゚Д゚) 「……」
剥がれた現実の、向こう側――
(-@∀@) 「ま、そんな事言いつつ、
僕もよく人から『まともじゃない』なんて言われるけどね」
最後に不穏当な一言をにっこり笑って付け足して、
朝日は「どっこらせぇい」と年寄りじみた掛け声と共に立ち上がった。
- 96 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:28:20.60 ID:IQYIh8480
-
(-@∀@) 「んじゃ、僕はお先に失礼するよ。
ギコさんもいつまでもこんな処でサボっていると怒られるよ」
(,,゚Д゚) 「うるせえ」
軽口の応酬にむっつりと手を振り、「さっさと行け」とジェスチャーで示してやると、
含み笑いを置き土産に朝日は立ち去っていった。
(,,゚Д゚) 「……」
ぼんやり座ったまま、ひらり翻る白衣の裾を見るともなしに見つめる。
やがて白い背中が廊下を曲がって完全に見えなくなると、
ギコはぼそりと一人呟いた。
(,,゚Д゚) 「……羨ましくなんて思うかよ」
- 97 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:33:17.19 ID:IQYIh8480
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水の音が聞こえるのだと言っていた。
暗い目で、ぼそぼそと陰気な声で喋る男が、
あの時ばかりは瞳を輝かせていた。彼女が呼んでいるのだ、と。
ぞっとしなかったと言えば嘘になる。
しかし、その時の男の顔が心底幸福感に満ちていたのは確かだった。
その音は、薄い膜で隔てられた
『向こう側の現実』に触れてしまった者だけに聞こえる音なのだろうか。
それは自分だけに与えられる新しい世界の福音だ。
この世の大多数が堅牢だと思い込んでいる世界の境目を容易く越え、
美しく純粋な世界を手に入れられたのだとしたら、
一体彼はその囲いをどうやって引き剥がしたのだろう。
- 99 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:38:08.42 ID:IQYIh8480
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いや。
気付いていないだけでそれは誰の傍にもあるのかもしれない、
とギコは思った。
皆、普段はそ知らぬ顔をしてそれから目を背けているだけで、
その気になれば簡単に手が届くのかもしれない。
たとえば、たった今、こうやってそっと手を伸ばせば、
書き割りのように薄っぺらな現実が指先に触れ、
小気味良い音を立てて剥がれ落ちていくのではないか。
その光景は自分でも不思議なほど自然に脳裏に浮かび上がってきた。
目の前の空間に腕を伸ばす。
手が触れる。
触れた指の先からぱりぱりと、光を反射しながら細かい破片が落ちていく。
ぱりぱりと――ちょうど、魚の鱗を剥がすように――
- 101 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:42:37.19 ID:IQYIh8480
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(,,゚Д゚) 「……馬鹿馬鹿しい」
は、と短く息を吐き出し、
何となく前に伸ばしていた腕を引っ込めて、ギコはかぶりを振る。
聞き込みやら何やら、確かにやる事は山積みだ。
いつまでも喫煙所に篭ってぶすぶすと燻っている訳にはいかない。
(,,゚Д゚) 「さあ、仕事だゴルァ!」
ギコはがばりと椅子から立ち上がり、
彼が今向き合うべき現実に向かって歩き出した。
先刻、腕を伸ばした時に一瞬だけ感じた奇妙な感覚は、きっとすぐに忘れるだろう、と思いながら。
- 102 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2010/07/20(火) 00:43:52.42 ID:IQYIh8480
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ぴちゃ、と、どこかで水の滴る音が聞こえた気がした。
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