674 名前:ブーンが現実世界に抜け出てしまったようです :2006/01/29(日) 17:04:39.70 ID:yiRoWEOn0
「先生、パソコンが自我を持ち始める可能性がある、という話はご存知ですか」
研究室のソファに身を預け静かにコーヒーをすする僕の先生に、突拍子も無く問う。
「そのような難しいもの、私には分かりませんよ」
ほとんど真っ白になった髪、それとほとんど同じ色の口ひげ――といってもたった今
すすったコーヒーで少し茶色くなっているが――を撫でながら先生は答えた。
「パソコンはそんなに難しいものではないですよ、先生」
僕は先生の向かいのソファに座った。
「まぁそれは置いておいて。現在、パソコンの処理能力ってのは人間の脳のそれを
大きく上回っているらしいんです」
そして机の上に置かれた二つ目のコーヒーカップに手を伸ばす。
676 名前:ブーンが現実世界に抜け出てしまったようです :2006/01/29(日) 17:05:01.81 ID:yiRoWEOn0
「そして今僕が注目しているのが、インターネットの巨大掲示板において形成されるAA
なんです。AAってのは、掲示板の利用者の間で共有されるキャラクターみたいなものの
のことなんですが。そのキャラクターの中でも、広く知れ渡ったもの。それが、固有の
性格をもって動き始めているんです」
先生が顔をゆがめる。
「難しいじゃないか、山本君」
僕は笑顔で返す。
「すみません。そこで僕が考えたのが、その有名になり、一つの固有の性格を持った
キャラクターが、掲示板という媒体を通さず一つの存在として生きはじめる、ってこと
なんですよ。もちろん、現在そのAAを“生かして”動かしているのは掲示板の利用者に
他ならないんですけどね。パソコンがAAの性格や挙動を記憶して、彼に新しい生命を
吹き込んでいく。そんな風に思うときがあるんです」
そこまで言って僕は言葉を切る。
コーヒーをすする音だけが響き、研究室はとても静かだ。先生はコーヒーカップを置き、
一つため息をついた。
677 名前:ブーンが現実世界に抜け出てしまったようです :2006/01/29(日) 17:05:32.80 ID:yiRoWEOn0
「その、AAといったかね、名前はあるのかい」
「内藤ホライゾンです」
先生はまた口ひげを撫でる。
「変な名前だね」
「そうですか」
「山本君。私が思うに、彼は―内藤君は、不幸だ」
突拍子も無い先生の言葉に、僕は顔をしかめた。
「なぜです?」
「うん。先ほど、彼を動かしているのは掲示板の利用者だと君は言ったね。それはつまり、
少なからずその利用者の意識が彼に乗り移っているって事になるね」
「はい」
「その時点で、彼は生命として自立することは出来ないんだよ。他人の思考によって
成り立つ生命など、ありえない。あったとしても、彼には望みがないんだ。生きる目的が
無い」
先生はそう言ってまたコーヒーカップに手を伸ばした。僕は顔の前で手を組んで、考える。
乱雑に詰まれた資料の束の隙間から、時計の長針が目に入った。休憩時間が終わるまで
もう少し時間がある。
678 名前:ブーンが現実世界に抜け出てしまったようです :2006/01/29(日) 17:06:07.83 ID:yiRoWEOn0
「それはどうですかね。生きる目的を僕たちで決めることならできます」
先生はコーヒーをすする動作を中断して僕を見た。
「それを生命と呼ぶのかね、君は」
「さぁ?どうでしょう。僕たちの生きる目的だって本能的なものは僕たちが決めたことじゃ
ないでしょうし」
僕は机にあるパソコンを起動した。最近の電子機器をあまり好まない先生の研究室の中で、
僕が持ち込んだこのノートパソコンだけが異質だ。
「これを見てください、先生」
僕は掲示板のうちの一つのスレッドを開き、先生に見せた。先生はそれを覗き込んでつぶやく。
「やっぱり難しいよ、私には」
情けない声を出す先生に、僕は思わず吹き出した。
「彼の生きる目的、それはこの掲示板に限って、走ることなんです」
「ふむ」
「現在はまだ徹底されてはいませんが、このAAがもっと有名になって掲示板以外の所でも
使用されるようになり、この本能にしたがって行動するようになれば、彼は本能を持つ一つの
生命として認められるのではないでしょうか?例えるなら、有名小説の主人公のように」
679 名前:ブーンが現実世界に抜け出てしまったようです :2006/01/29(日) 17:06:41.51 ID:yiRoWEOn0
顔をゆがめたままの先生は、逃げるようにパソコンの画面に背を向けて、言った。
「ですがそれは掲示板の中に限ってのことでしょう。現実世界には現れますまいよ」
僕は笑ったまま言う。
「先生。ここも、掲示板の中も、現実世界です」
先生は机の上に置きっぱなしの二つのコーヒーカップを、研究室に据え付けられた流し台まで
もって行く途中で、ふと足を止めた。
「確かにそうかもしれんね」
先生からのレスポンスが嬉しかった僕は、話を続けようと立ち上がった。
だが先生はそんな僕の心を読んだかのように、壁にかけられた時計を指差して言う。
「だが山本君、もう休憩時間は終わりだ。話はやめて、作業にもどりなさい」
先生は流し台の蛇口をひねる。流れる水はぼたぼたと音を立てながら、僕の気力とともに
コーヒーカップの茶色を落としていく。
僕は先生に軽く返事をして、パソコンを後にした。
ディスプレイに映し出された一つのスレッドが、自動更新されて新たなレスがつく。
( ^ω^)「今日もブーンだお!風をかんじるお!」
( ^ω^)「あっちのスレが楽しそうだお!突撃するお!」
( ^ω^)「楽しいお!今日も幸せだお!ブーン!」
僕はついにそのレスを見ることは無かった。
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