川 ゚ -゚)クーと水の底で吹く笛のようです
知ってるかい?
水の底では、
笛の音が聞こえるってこと。
川 ゚ -゚)クーと水の底で吹く笛のようです
その砂浜はとても白かった。
照りつける冬の太陽をあびて、
弓なりに湾曲した浜全体がきらきらと輝いていた。
その白い砂の上に点々とついた足跡。
波打ち際に向かう足跡。
…足跡の先には、一人の女性が立っていた。
吹き付ける海風に長い黒髪をなびかせながら、
その女性――クー、は直立して動かず、水平線を眺めていた。
海鳥が猫のような声で鳴く。
波が打つ。
自分の住処からできるだけ遠い海。
誰も来ないような砂浜。
それを探して、何日もかけて、
電車を乗り継いで、やってきたのが、この場所。
一面の白い砂と青い海、そして冬の晴れた空のある場所。
すべて捨ててきた。
携帯電話も、手帳も、毎日の変わらない日常生活も。
やがてクーは、何かを決意したように、きっ、と唇を結ぶ。
周りを見渡して、だれもいないことを確かめる。
身をかがめ、両足を膝まで覆っている茶色いブーツの留め金に手をかける。
下を向いた視線の先には、小さなピンク色の巻貝。
ブーツのホックに手をおいたまま顔を前に向けると、水平線までどこまでも続く海。
川 ゚ -゚)(海、か…)
すべての生物の母。
かつて、この海の中で誕生した単純な有機物のかけらが、
やがて肺と脊髄を持ち、陸へと上がり、
そして人間をはじめとするあらゆる動物へと進化していった。
クーはくすりと笑った。なぜなら、
地上に上がった動物は、いつかは、
やがてその命も尽き、肉体は有機物のかけらに再び分解され、
川に流され、海へと戻るのだ。
そのことが、なんともいえない絶妙な皮肉のように感じられたから。
すべての母。
すべてを生み出し、すべてを包み込む。
山に降った雨は川を作り、地上のものを流し去り、海へと至る。
地上のどんな物質も、この流れからは逃れることができない。
人でさえ。
人でさえ、ゆけなくなれば、海を指して行く。
そして海は、満ち足りた死を、そっと浜辺に打ち上げるのだ――
海は何も知らず、ただ波のみを浜辺に繰り返し打ち寄せる。
「見なさい、これを見なさい」と言いたげに。
と、その時。
後ろから聞こえてきた小さなエンジンの音に、
クーはブーツを脱ぐために下ろしていた手を止め、身を起こす。
遠くの海岸道路に、モスグリーンのカブをとめてヘルメットを脱ぐ人影が見える。
親指ほどの大きさの人影は、
大きな箱を肩からかけて、長い竿をかついで、ゆっくりとクーのほうへ歩み寄ってきた。
老人だった。
歩きにくい砂浜を、器用に両足を砂に乗せるようにして進んでくる。
老人は、クーからやや離れたところで立ち止まり、口を開いた。
('A`)「ここらじゃ見ねえ顔だな」
しばらく誰とも話をしていなかったのだろうか、
老人の喉は、がらがらと鳴っていた。
クーは唇を硬く結んだまま、わずかに頭を下げて会釈した。
この浜の砂のように真っ白な頬が、冬の寒風にさらされて、ほのかに赤みを帯びていた。
老人はごましおになった顎をもごもごとさせて、
砂の上に大きな箱を下ろし、竿に巻きつけていた釣り糸を解き始めた。
('A`)「ヨッコラセックス…」
老人は掛け声をかけて箱の上に腰掛ける。
クーは老人の卑猥な言葉に対し、露骨に嫌悪感を顔に浮かべて見せる。
川 ゚
-゚)(…品の無い、無知無学の粗野な……)
それが、この老人に対する、クーの内心の偽らざる評価だった。
美人でありすぎるがゆえにどこまでも冷たく、氷のように冷たく見える、クーの目つき。
クーはくるりときびすを返した。
老人から離れたかった。
一歩踏み出しかけたクーの背中に、
老人は声を掛けた。
('A`)「まあ、一投くらいはわしの投げ釣りを見ていきなせえよ。その後でも遅くはあんめえ」
しわがれた、ゆっくりとした声だった。
('A`)「…あんたの用事をするのは、よ」
クーはびくりとした。
老人は『用事』のぶぶんを強調して発話していた。
老人は黙々と釣りの準備を続けている。
クーはその場を立ち去るきっかけを失い、ただ老人の手元を見つめていた。
('A`)「カレイだよ。この時期の砂浜は」
三つの針がついた複雑な仕掛けを解きほぐしながら老人は言った。
竿についたリールを細かく調節し、糸の長さを揃える。
老人がエサ箱を開けたとき、クーは思わず小さな悲鳴を上げた。
ムカデのような気持ちの悪い虫が、何匹か絡まりあって、玉を作っていた。
老人は意に介さずその虫を素手でつまみ上げ、針に通していく。
そのあまりにグロテスクな様子からクーは目を離すことができず、
大きな目をまんまるに見開いて、口元を手で覆っていた。
('A`)「…都会の人なんだね」
三つの針にエサを付け終わった老人が言った。
('A`)「さて、と」
投げる準備が出来たようだ。
老人は竿を両手で持つと、頭の上に大きく振りかぶる。
背丈の二倍はありそうな長い長い竿だった。
投げる直前にクーのほうにちらりと目線を送り、
そのまま全力で前へと投げ、振りぬく。
ぶうん――
力強い風切り音。
リールが糸を繰り出すしゅるしゅるしゅる…という音が、しばらくは鳴り続いていた。
やがて、遠くの沖合いで「どぼん」という音がして、小さな水柱が上がる。
老人はそれを見届け、満足そうにうなづいて、砂浜に置いた箱の上に腰掛けた。
白い砂の砂浜に冬の午後の日差しが降り注ぐ。
海から風が吹きつけ、クーの髪をなでていく。
浜は静寂を取り戻した。
釣り糸が落ちたエメラルドグリーンの海を見つめ、
そして水平線近くの群青色の海を見つめ、
そしてその上にある、よく晴れた空の抜けるような青を見つめ、
クーは頭の中で展開されていく自分の思索の中に没頭していった。
意味を見失ったのはいつだろう。
子供の頃は、大人になれば素晴らしい何かがいろいろあると思っていた。
高校生だった頃は、大学生になれば自分の生が確かなものになると信じていた。
そして、たしかに大人になって、そして大学に行けば、いろいろなものがあった。
楽しい遊びがあり、
新しい出会いがあり、
女子大生クーには将来への展望があった。
でも…
なぜなんだろう。
いつのまにか、それらはすべて輝きを失っていたのだ。
人生から光が失われていたのだ。
生きる意味。
そんなことを考え始めたときには、すでに、
生き続けようとする意思を失い始めていたということか。
('A`)「知ってるかい? 水の底では、笛の音が聞こえるってこと」
唐突に老人は言った。
その目はじっと竿の先、釣り糸の動きを見つめたままで。
クーは自分の世界からとつぜん現実に引き戻されて、
眩暈にも似た感覚を覚えながらも、
老人の言葉の意味を考えてみる。
川 ゚ -゚)(水の底…?)
たしか、そんな詩があった。有名な詩だ。
クーは驚いた。
目の前で釣り糸を垂らすこの粗野で無学そうな老人が、
詩を話題にするほどに高い知性と繊細な感性を持っているなんて。
('A`)「水の底から見上げる世界ってのは、そりゃあもう、綺麗なものでね…」
老人はクーの言葉を待たずに話し続けた。
('A`)「この浜の砂は石英でできているんだ。
だからこんなにも白い。輝くばかりにね。
今は冬だから、そうだな…まるで雪でも降ったみたいに見えるだろう?
そんな砂の積もった水底に、上から光が降り注ぐんだ」
老人は竿を左手に持ち換え、右手でリールをすこし引き、糸を巻き寄せた。
その動作を説明するようにクーのほうを向き、身振りを交えながら語った。
('A`)「カレイの引き釣り、って言ってね。
こうやって少しずつ巻き寄せながら、魚をおびき寄せるんだ」
ふたたび竿を両手で持って、老人はクーから視線を離し、目を前に向けて言った。
('A`)「あれはちょうど今くらいの季節だったけど、
水に入ればふしぎと冷たさは感じないものだったよ。
背が立たなくなったあたりで、俺は座り込んだんだ。海底にね。
尻の下の砂はほろほろと崩れて、いくぶんかはふわりと巻き上がって、
ほんものの雪みたいだったなあ」
知的な老人の喋り方に、クーもていねいに応じた。
川 ゚ -゚)「あなたは…」
('A`)「ドクオでいいよ、お嬢さん」
川 ゚ -゚)「じゃあ、ドクオさん…私はクー。
ドクオさんは、漁師さんなんですか?」
('A`)「どうしてだい」
川 ゚
-゚)「だって、水の底に入るっていうから…」
ドクオは、フッと笑って、クーの顔を見た。
知っているんだろう、あんたも、その理由を。
クーはドクオがそう言っているように思った。
皺だらけの顔に浮かべた柔和な笑みだった。
気心の知れた相手にしか見せられないような。
「仲間」に見せるような。
だからクーは、それきり口を閉じた。
大きな波がひとつだけやってきた。
波打ち際からかなり陸のがわにいた二人の足元にまで、その波はやってきた。
クーはおもわず片足をあげて後ずさる。
しぶきが茶色のブーツにかかり、点々とした丸いしみを作る。
ドクオは箱に腰掛けたまま動かなかった。
('A`)「…ご覧のように、海面ってのは常に動いているもんでね」
引いていく波を指差し、ドクオは言った。
('A`)「そこに差し込む光は、あちらこちらに折れ曲がるんだ。
でも、エメラルドグリーンの色をしてる海底では、
ちゃんと光が底まで届いているんだぜ。
本当だよ」
ドクオはリールを少し巻いた。
('A`)「水底に座ってるとさ、
きらきらと折れ曲がる陽射しが、水の底まで届くんだ。
…そこにまるで探してたものがあったみたいにね」
クーはドクオの言葉に顔を上げる。
探してたもの…。
私にとっては、何だろう。
クーは思った。
川 ゚ -゚)(…私は、何かを探していたのだろうか)
クーはまた考え込み始めた。
何度と無く自分の部屋で、ベッドの上で、考えつづけた同じ疑問。
生きる。
ラストのオチを知っている映画を見続けることに、
いったい何の意味があるんだろう。
ほんのわずかの喜びのために、
無数の困難を乗り越えなければならない理由は、
いったい何なんだろう。
中学でも高校でも成績は常に上位をキープし、
難関国立大学の入試を一桁順位で合格したクーの頭でも、その答えはいつも出なかった。
いや――
たった一つの明確な答えだけは、つねに厳然として提示されていた。
「生きる意味――無し」、と。
('A`)「水底に座ってると、そのうち耳に水が染み入ってくる。
しんしんと、ね。
そうすると、だいたいは聞こえるようになってくる」
ドクオはそこですこし間を置いた。
('A`)「最初はマグマが流れるような、ドロドロドロ…って音だ。
これは地上でも聞くことができるぜ。自分の耳を両手で塞いでみな」
クーは自分の両耳を手で塞いでみた。
冬の浜風にさらされ、冷たさのあまり痛くなってきていた耳に、
わずかばかりの手のひらのぬくもりが伝わっていく。
しばらくはガサゴソいう音ばかりが聞こえてきていたが、
やがて、ドロドロドロ…という音が、自分の心音に混じって聞こえてきた。
ドクオの言うとおりだった。
('A`)「な、聞こえるだろ。
これは自分の筋肉が動く音なんだぜ」
得意満面になってドクオが言った。
その笑顔がなぜか気に入らなかったので、クーは自分の耳から両手を離した。
ドクオはそのまま話し続けた。
('A`)「で、次に聞こえてくるのが笛の音なんだ。
…こればっかりは特別なもんでねえ。
水に入ったからといって、そうそう誰でも聞けるってもんじゃあないかもしれん」
ドクオはクーのほうを向いた。
('A`)「さっき、あんたは俺のことを漁師かって聞いたな」
クーはこくりとうなづいた。
('A`)「俺は漁師じゃあないが、ここに住むようになってから素潜りくらいはするようになった。
このへんの水底もいまではすっかり俺のおなじみの場所さ。
ところが、水底で笛の音を聞けたのは、じつは後にも先にも一回こっきりなんだ。
最初にこの浜に来たときの、ただ一回だけなんだ」
クーは老人を見つめ、話のつづきを待った。
その目つきに含まれていた棘はすでに消えている。
('A`)「眼球の酸素濃度、とかなんとかいう話だそうなんだが、
水にながいこと潜ってると、水面に水晶球が浮かんでるように見えることがあるそうな。
…俺が砂浜からゆっくり海の中へ歩いていって、水の底に座り込んだときにも、
ちょうど水面にそれがうかんでたんだよ。
まあるい、透明な珠がね」
ドクオはリールを引く。
クーは、ドクオの話を聞くかたわら、自らの空想も続けていた。
まあるい透明な水晶球のことを考えていたら、
――なぜか、涙が出てきた。
ベッドの上で思索にふける私はとても苦しかったんだ。
髪の毛をかきむしるほど、
なにも食べられないほどに、
誰とも会いたくなくなるほど、
そのくせ、死ぬほど誰かに会いたくなるほど、苦しかった。
そして、この海に来て、その苦しみを終わりにしたい――と思うほど、苦しかった。
私はいったい何をすればいい?
何のために生きればいい?
クーは、自分の頭の中に浮かぶ、水底の水晶球の、
うっすらと漏れてくる折れ曲がった光に向かって、祈っていた。
がらすざいくのゆめでもいい あたえてくれ
と――
うしなったむすうののぞみのはかなさが
とげられたわずかなのぞみのむなしさが
あすののぞみもむなしかろう、と…
('A`)「…笛に潜んで歌っている。
そんな音色だったよ。あの笛は」
ドクオが静かに語っていた。
両拳を握り締め、ぼろぼろと涙を流し続けるクーのとなりで。
クーはその場に泣き崩れた。
嗚咽を上げ、肩を震わせた。
ドクオはただエメラルドグリーンの海面に目を向け続けていた。
海鳥が鳴き、潮騒が響いた。
どのくらいの時がたったのだろうか。
砂浜に落としていたクーの額を、打ち寄せてきた海水が濡らす。
クーははっとして顔を上げる。
ドクオはあいかわらずそこにいたが、
波打ち際が二人のほうに近づいてきている。
潮が満ち始めているのだ。
('A`)「…泣き慣れてないね、クーさん」
釣り道具をしまいながらドクオは言った。
クーは素直にこくりと頷いた。
('A`)「いままで涙を見せたことがないんだろ」
クーは再び頷いた。
('A`)「そうだろうな。
人生において二回目だろう、あんたが泣いたのは。
ここで泣いたことが一回、それから、あんたが生まれる時に分娩室で泣いてたのが一回。
…あんたにとっちゃ、泣き声はすなわち産声なんだ」
ヨッコラセックス…
再びあの卑猥な掛け声をあげて、ドクオは座っていた大きな箱を肩にかける。
仕掛けをまきつけた竿をかついで、
ドクオは立ちすくむクーに声を掛けた。
('A`)「そんな薄いコートだけで砂浜に長い時間いて、体が冷えただろう?
うちに寄っていかないか。
ろくなものは出せんが、米の飯と味噌汁くらいならできるよ」
ドクオは、老人特有のやけに大きなくしゃみを一つした。
額と髪についたべたつく白い砂を落としながら、
クーはドクオの提案を聞いていた。
海鳥が猫のような声で鳴く。
波が打つ。
クーの涙はすでに止まっていた。
頭の中の優秀で明晰な思考回路は、
米の飯と聞いて湯気を立てるお茶碗を、味噌汁ときいて芳醇な味噌の香りを、
それぞれ正確に思い描いていた。
クーはくすりと笑った。
ごはんを食べたい、と、ひさしぶりに考えるようになった自分に。
…それから、この老人の言葉を、もうすこし聞きたいと思っている自分に。
クーは、歩き出していたドクオの背中に向かって、白い砂を蹴立てて小走りに駆け寄っていった。
川 ゚ -゚)クーとドクオと水の底で吹く笛のようです おしまい