( ^ω^)『夢の墓場』のようです
78 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/21(金) 23:39:10.86 ID:xMnTi60VP
- ---31---
『海』
扉の先は鏡の通路より遙かに暗く、一瞬僕は視界をなくした。
やがて目が慣れてくると、やや広い一室であることが分かった。
( ^ω^)「……トソン?」
僕は小声で呼びかけた。返事はない。
不意に水音がした。ピチャリ、と跳ねるような音。
同時に、部屋の中央が薄ぼんやりとした青の光を放った。
僕は壁面を探って電気のスイッチを探した。が、見あたらない。
この部屋には灯りが無いのかもしれなかった。
仕方なしに手がかりもなく近づいて見る。未だ青く光っている光源に向かって。
青い光は部屋の中央、高さとしても中央のところに浮かんでいる。
何か動くものを照らしているようだが、よくは分からない。
更に近づこうとして、僕は何かに頭をぶつけた。
手をのばすと、球体の形をしたガラスのような硬質のものに触れた。冷たい感触。
ちょうど目の高さの部分に、巨大な球体の下半分があるようだった。
灯りが足りない。薄ぼんやりした光はほとんど消えかかっていた。
僕は腰をかがめて球体のしたをくぐり、ペタペタと触れながら、それが地面から浮いていることを知った。
球体は、もしかしたら完全に浮遊しているのかもしれない。
81 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/21(金) 23:43:43.49 ID:xMnTi60VP
- ( ^ω^)「トソン――」
もう一度呼びかけたとき、また水音がし、今度はさっきよりも烈しい光が放たれた。
それにより、僕はその球体の全貌を把握することが出来た。
ガラスの球体の中には、大量の文字が詰まっていた。
多くの二次元的な文字が絡まり、組み合って巨大な流動体をつくりだしている。
それはまるで水のようでもあった。この球体は、さしずめ水槽といったところだろう。
先ほどぴちゃり、と跳ねたのは水ではなく、文字だったのだ。
『鬱』だとか、『空』だとか、そういった小さい文字が、何かの拍子に跳ねたのだろう。
僕はしばらくその球体を眺めていた。
そして、黒々とした文字の隙間から、水槽の中央にうずくまっている、青い光に照らされた肌色を発見した。
それは、どうやら裸の肢体の一部分らしかった。
( ^ω^)「トソン、トソン!」
もはや、彼女以外の誰が考えられよう。
僕は必死にガラスを叩いた。ガラスは意外に分厚く、音一つ出さない。
絶えず流れ蠢く文字たちのせいで、彼女の身体はほとんど見えなかった。
しかし時折見える肩や脚、そして頬といった部分に、僕はトソンである証拠を見出していった。
83 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/21(金) 23:48:09.52 ID:xMnTi60VP
- 突然、青の光が弱まった。同時に、文字たちが音をたてて渦巻いた。
彼女が動いたようだった。どちらかに向かって、彼女は文字の海を泳いでいた。
そして、また青が光った。
球体内部の端、ちょうど僕が立っている場所と対向の場所に彼女はいるようだった。
僕は急いで回り込み、ガラスを叩いた。
( ^ω^)「トソン……」
僕はようやくトソンをはっきりと見た。しかし、彼女の方はまだ僕に気付いていないようだ。
裸体の彼女は、ほとんど陵辱されているかのように、文字に塗れていた。
その中で、彼女は口に『文』の字を咥えていた。そしてその字は青く光っている。
彼女は『文』の字をゆっくりと口の中に誘い入れ、何度か咀嚼してからゆっくりと飲み込んだ。
その姿に思わず僕は見とれていた。
不思議なことに官能は一つも感じられず、代わりに奇妙な懐かしささえ覚えられた。
しかし、次の瞬間には僕は我に返り、再びガラスを叩いた。
すぐそばにいるのに、彼女は僕になど目もくれず、文字を飲むのに夢中だった。
僕はガラスを割るつもりで、殴り続けた。
しかし、心の何処かではほんの少し、彼女が気付いてくれることを、確信していた。
そして僕が何度目かの大きい振りかぶりから拳骨をガラスに叩きつけたとき、
案の定彼女はこちらを向いた。眼があった。
86 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/21(金) 23:53:28.47 ID:xMnTi60VP
- ( ^ω^)「トソン、大丈夫かお!?」
トソンは仄かに微笑んでいるようだった。声は届いていないらしく、彼女は口を開かない。
そんな彼女に、僕はただ必死に訴えかけ続けた。
( ^ω^)「今助けるお! トソン、もう大丈夫だから……」
しかし彼女は、必死に動かす僕の口に向かって、ゆっくりと人差し指を差し出した。
「しーっ」とやる時の、アレだ。僕は想わず黙り込んだ。
彼女はゆっくりとした動作で、微笑みを絶やさないままにぴったりとガラスの内壁に近づいた。
まるで母のようだ、と僕は思った。
何故かは分からないが、トソンの振る舞いはまるでそんな風だったのだ。
しばらく彼女は何もしなかった。ただじっと僕を見つめていた。
慈しむように、或いは憐れむように。僕も彼女を見返した。二人ともじっくりと黙っていた。
やがてトソンが口を開いた。
声が伝わらないのを承知してか、彼女は大きく、ゆっくりと文字を吐いた。
(゚、゚トソン「き、も、ち、い、い、で、す、よ」
89 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/21(金) 23:57:37.20 ID:xMnTi60VP
- 今までに感じたことの無いような絶望が一気に僕に向かって降り注いできた。
何故だか分からない。
本当によく分からないが、僕は立っていることすら出来なくなってしまったのだ。
しかしこれだけは言える。
あれだけ僕に付き従っていたトソンが、その台詞を吐くとき、確実に僕より上の立場をとっていたということ。
そして、それを言ったトソンは次第に、消え入るようにして文字の中に溶け込んでしまったということ。
……端的に言おう。僕は闘争に敗北したのだ。
相手は文字の海。僕の存在、そして僕の小説という存在は、全て球体に詰められた文字達に敗北した。
そしてトソンを奪われた。ほんの少しでも、僕の方に傾いていたはずの彼女を、いとも容易く奪われてしまった。
しかも、トソンの意思で。
トソンは確かに言っていた。「あなたの小説が大好きだ」と。
しかし、言葉など結局なんの裏も取れない曖昧な証拠に過ぎない。
その意味ではまだ、文字に委ねられた小説の方がマシなのだろう。
93 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:02:59.14 ID:/GIGAitFP
- 結局、彼女はこれを望んでいたのだ。文字の海を。
そういう、『生まれないと』感じられなかった文字達の存在に、いつまでも身を浸すことを願っていたのだ。
そのためにここまでやってきた。そしてその目的を果たし、僕と別れた。全て予定通りだ。
……もしかしたら、トソンは僕に最初から復讐するつもりだったのだろうか。
こうやって、僕を失意のどん底へたたき落とすのも、全ては『トソンの母を棄てた僕への復讐』なのだろうか。
……だからあんな表情を。
いや。やめよう。殊更彼女のことを悪く言ったって、虚しくなるだけだ。
だが、現実として、僕は全てを失った。
もはや僕の手元には一枚のカードも残されてはいまい。
孤独という意志も、恋人も、トソンという出会いも、希望も自分自身も何もかも。
ああ、だから夢の墓場……。
この塔においては、誰もが夜見る夢さえも死んでしまう。
希望という方の夢も消えてしまう。
何もかも、文字の海の泡沫に……。
97 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:07:25.16 ID:/GIGAitFP
- ---32---
『自慰』
――それから僕がどんな行動を取ったのか、よく分からない。
気がつけば、僕は見慣れた、時計しかない白い部屋にリュックと共に座り込んでいた。
時計はもうすぐ夜を示すようだった。僕は壁の隅に座り、何も出来ずにいた。
ここから先、どうすればいいのだろう?
やっぱり、塔を上るしかないだろうか。そうしたところで、何が得られるだろう。
だが、最早僕の目的はそれしか無くなった。
自殺者の、最後の心残りのようなものだ。
僕は僕自身を、その目的を達成する手段にしか使えない。
不思議と、トソンのことはほとんど思い出さなかった。
考えてみれば当たり前なのかもしれない。たった数日でしかなかった関係を、
感情は深く刻んでも、記憶の方はさほど深く刻まなかったのだろう。
だが、僕は酷く疲弊していた。身体的でも、精神的でもない、もっと根本的な疲弊。
まるで、人生そのものがそろそろ終末を迎えてくれと訴えてくれと言っているような。
その瞬間、僕のそばの床にあの文字が浮かび上がった。
『Dere 死にたい 5秒以内前 自宅で』
99 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:13:13.43 ID:/GIGAitFP
- 僕はそれを見て、今まで少しも流れる気配の無かった涙で目頭が熱くなるのを感じた。
刻みつけられた文字に手をのばし、あまつさえその文字をなぞってさえいた。
……そう、僕はまだ独りじゃない。そう思えたのだ。
彼女の呟きを見ていられる限り、僕はまだ、真の孤独では無い。
…・・しかし、喜んでばかりもいられない。彼女は切実に死にたがっている。
彼女の呟きのすべてを見たいとは言わない。むしろ見たくない。
彼女の、よい部分。ポジティブなニュース、幸せな報告。
ただそれだけを選り分けて見ようとするのは、わがままだろうか。
悪い性格。どうしようもない暴露話。死にたい、死にたい、死にたい。
そういう影の部分を見たくないと思うのは、傲慢だろうか。
僕は立ち上がって壁面を眺め回し、それから床に手をついて犬のように這いずった。
そうやって、トソンを失った僕は、ひたすらに関係の種子を探し続けた。
それはつまり、デレの呟きだ。
悲しい事に、僕とトソンの間にできた繋がりの痕跡は、一つも無いのだから。
だが、残念ながら彼女の呟きは『死にたい』一つきりで、それ以上見つからなかった。
106 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:17:24.27 ID:/GIGAitFP
- 夜が訪れた。体感的な話で、別に辺りが暗くなったというわけでもないが。
だが、僕の気分は良い具合に落ち込んでいた。
アンニュイで、メランコリックというやつだ。そうやって自分を誤魔化せば、幾らか気楽にもなれた。
僕はリュックを開いた。一番上に、ペンを挟んだノートがのっかっている。
……そういえば、小説のことをすっかり忘れていた。
僕は今夜、アンドロイドとキャスターを殺すつもりだったのである。
そうしたところで意味はない。
この小説は、たった一人の読者を失ったのだから。
誰もその結末に驚き、悲しんではくれないのだから。
しかし、僕はペンを取った。
ノートをめくり、新しいページに物語の続きを書き付け始めた。
僕は着々と、アンドロイドとキャスターを殺す準備をしていた。
快感だった。僕は誰も読まない小説を書いているのだ。
こんなに非生産的行為があるだろうか。
まるで色情狂の自慰のように、僕は僕自身の穢れをノートの上に吐き出し続けた。
不完全な涙を流しながら、僕は読み手のいない小説を書き続けた。
そんなこと、理屈の上では有り得ないのかもしれない。
読者のいない小説など、自己欺瞞の内に破壊されるべきなのだろう。
だが、自己欺瞞そのものである僕には、そんなことどうでもいいことだ。
108 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:21:24.56 ID:/GIGAitFP
- 結局のところ、人の一生だってそんなものなのだろう。
自分一人でステージに立ち、観衆と共に墓の下まで歩いて行く。
そして、観衆のいないステージで演じ続ける滑稽さこそ、孤独そのものなのだろう。
それでいいと思っていたのだ。
孤独の滑稽さを承知した上で、僕は観衆に踊らされる人生より、そちらの方がマシだと考えていた。
だが、現状を見るに、僕は結局観衆に踊らされなくても、現実に踊らされていたと言うことになる。
塔という、僕にとって最も近しい現実に。
いくら否定しようとも、現実は現実として存在し続ける。それは誰のためにも不在へ転じようとはしない。
だが僕自身の存在は、誰も認めなければ簡単に不在へ転じられるのだ。
きっと、塔の屋上から見渡したところで、他の誰かの塔は見つからないだろう。
時計の短針が一回転するぐらいの時間、僕は小説を書き続け、そしてようやく完成させた。
アンドロイドとキャスターは、予定通り最後のページで壊された。
最後の段落、僕は以下のような文章で締めくくった。
『誰も彼らが壊されたことを知らない。
それを知っているのは恐らく、彼らを破壊したロボットアームに残された感触ぐらいのものだろう。
何も問題はない。工場は一つの不具合を取り除き、前より効率よく稼働し続ける。
退場していくものと見送られるもの。それを出口の方から眺める気分はどうだい?』
僕はそのノートを、部屋の中央に置いた。
そうやって遠くから眺めてみると、まるで取り残された遺書のようでもある。
僕は何となく手を合わせて、ノートに向かって黙礼した。
109 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:26:18.42 ID:/GIGAitFP
- ---33---
『堕ちのぼる』
僕は最後の階段へ向かうドアを開けた。旅の終りは十分に予感出来ていた。
もうこれ以上塔が僕に向かって果たすべき役目はない。
僕は順調にすべてを失い、孤独を噛み締めたのだから。
……いや、正確には『すべて』では無いのかもしれない。
まだ、僕の塔にはデレの呟きが残されている。
しかし、それにどれほどの意味があるだろう? 僕とデレは、最早出会うこともないだろうに。
とはいえ、どうやら認めざるを得ないようだ。
僕は僕自身の無神経さ、残酷さをまだ発露していない。
つまり、心のどこかで僕は、デレとの再会を望んでいるのかもしれなかった。
それが破滅的な願望であること、また実際に会ってしまえばこの、
心に燻る甘美のような幻想が打ち砕かれてしまうことも、重々承知している。
それでも会いたいと願っている。あくまでもエゴイズムは、破滅を求めているようだった。
それは、この階段を上り続けることと同じ行動原理であろう。
自ら志願して死刑囚になった僕は、十三より遥かに長いこの階段を登り、
そして死亡証明書を受け取ろうとしているのだった。誰にも知られぬまま、独りで。
階段は今まで通り中程で折れ、更に上へ向かう。
頂上はどのような景色を見せるだろう。そこから見渡せる世界には、一体何があるのだろう。
113 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:32:26.11 ID:/GIGAitFP
- 壁面に刻まれた文字を、僕は新しく発見した。
『Dere もういいや、何もかも終わっちゃった。 5秒以内前 自宅で』
僕は首を傾げた。一体彼女の何が終わってしまったのだろう。
僕の現状と彼女の現実が関係しているわけは無いのだから、彼女に、何かが起きたということになる。
続いてまた、文字が刻まれる。
『Dere ……短い間だったけど、楽しかったよ、ありがとうね。シャキン君。 5秒以内前 自宅で』
何とも言えない、複雑な気分に襲われた。
その名前は、僕の知らない名前だった。デレの新しい彼氏なのだろうか?
そうだとして、しかし彼女はその男と別れたらしかった。
デレと長岡はもうすでに別れている、トソンはそう言っていた。
僕が彼らに出会ったのはもう随分前のことだから、
デレがその後、また新しい恋人と付き合っていたとしても何ら不思議ではない。
そして彼女は、再び振られたらしかった。
彼女ほど賢い女性が、こんな不運に見舞われるなど、にわかには信じがたい。
神様がサイコロを操作したとしか考えられなかった。しかし、それは現実、彼女の身に起こった出来事なのだ。
『Dere
一つだけ謝らせて。貴方との数カ月、私は本当は、貴方を好きじゃなかったのかも。 5秒以内前 自宅で』
たまらなくなって、僕は階段を上る歩調を始めた。
しかし彼女の呟きは、追いかけてくるように視界へ飛び込んできた。
116 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:37:43.93 ID:/GIGAitFP
- 『Dere もしかしたら、私は違う人の影を貴方に見ていたのかもしれない。 5秒以内前 自宅で』
階段は更に上へ向かって折り返していた。いつものような扉はもう無い。
『Dere
それが、誰なのかは分からないけど。 5秒以内前 自宅で』
幾重にも折り重なっている上り階段を、僕は息が切れるのも構わずに駆け上がっていく。
『Dere もしかしたら、分からないことが、罪なのかな? 5秒以内前 自宅で』
不意に身軽になったような気がした。僕はほとんど地面を踏まず、空気の上を跳ねていた。
『Dere
いろんな人を憎んだ。今でもまだ、その気持ちは残ってるんだと思う。 5秒以内前 自宅で』
僕は上っているのと同時に、階段の上に向かって転がり落ちているようだった。
『Dere
でも、やっぱり、一番憎むべきは自分なんだね。それが一番、簡単だし。 5秒以内前 自宅で』
精神的な上昇を感じるとき、それは激しい堕落に対する錯覚なのかもしれない。
『Dere
もう、十分悲しんだもの。十分辛かったもの。 5秒以内前 自宅で』
やがて扉が見えてきた。その隙間から僅かに明かり漏れている。場繋ぎのように曖昧な曳光。
『Dere
さようなら。 5秒以内前 自宅で』
扉を開く。
119 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:43:02.77 ID:/GIGAitFP
- ---34---
『逆位置の塔』
一瞬、肉体を失ってしまったかのような錯覚さえ感じた。
冷たい風が顔に吹き付け、砂のように乾ききっていた僕の身体に潤いをもたらした。
視界の彼方に蒼穹があった。柵のない屋上は、一面真っ青な空に取り囲まれていた。
それは、狂気と呼んでも差し支えないような解放感だった。
夢にまで見ていた塔の頂上がまさにこの場所の事であると、僕ははっきりと確信できた。
扉を開いたその場所で、僕はしばらく呆然と立ち尽くした。
一歩踏み出すまで、どれだけの時間がかかっただろう。
しかし、踏み出してしまえば早かった。僕は一目散に塔の縁へ走った。
途中で振り返ると、扉はもう消えてしまっていた。さほど広くはない、
言い換えれば僕一人のためには適当な広さの円形の地面だけが残された。
ついに到着した。ついに到着したのだ。本当に本当に、ここがゴールなのだ。
僕の旅はこの場所に立ったことで、終焉を迎えたのだった。
長いようで短かったなどと、陳腐な言い回しが思わず口をついて出る。
最初に赤いブロックを積み上げて一本の塔を組み立てた時から、僕はずっと、この瞬間を待望していたのだ。
今や僕の心情は大きく変化してしまった。僕は孤独を全面的に望んでいるわけではないのだ。
むしろ、それが誰とであろうと――たとえデレとであったとしても――その関係を大切にしようとしていた。
しかし、結果として僕が全てを失ったことには変りない。塔に入った時点で、僕の運命は決定されていたのだ。
ちょうど物語の主人公がストーリーに流されるように、僕も迷路の道筋に流されただけの話である。
122 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:48:31.86 ID:/GIGAitFP
- 過去の全てを思い出そうと努力してみる。僕がここまで辿ってきた過去、
塔の入り口から始まり、そして徐々に生まれた瞬間まで遡ってきた、かけがえのない我が人生。
特別なものであろうとし、没個性的な人間として生きるのを拒否し続けてきた、それ自体在り来りな物語。
誰もが自分は特別だと錯覚する時期がある。
そして、その考え方が万人に共通すると知った後でも、なお自分は特別であると思い込む人間は大勢いる。
僕だって、その内の一人にすぎなかった。
僕が望んでいたのは、『孤独』ではなく、むしろ『孤高』だった。
独りでいることに、高さを求めていたのだ。そこから、人びとを見下ろしたかった。
三百六十度回転してみて、辺りを眺望する。やはり、他の塔の姿は見えなかった。
縁から下界を見下ろすと、青い空しかない。
白い雲どころか、その先にあるはずの地面も見えない。そんなにも僕は、高く上ってきたのだろうか。
さあ、後は処刑を待つのみだ……。
どのような形で僕が破壊されるかは分からない。或いは、僕自身が僕を破壊するのかもしれないのだ。
それにしたって、今僕はどのような道具も持ち合わせていないわけだし、塔の頂上には地面しかない。
振り返るための扉も消えてしまった。
ゆっくり待つことにしよう。どうせそれぐらいしか、僕にすることは無いのだから。
そう思い、僕は腰を下ろして座り込み、そのまま仰向けに寝転がった。
その瞬間、僕の目に信じられないものが飛び込んできた。
街並みだ。
124 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:53:06.06 ID:/GIGAitFP
- 最初、理解ができなかった。
遙か真上、仰臥する視線の先に、都会の航空地図のような街並みがあった。
ミニチュアのようなビルや、道路が細かく刻まれている。
僕は跳ね起き、頭上を両手で、何かを掴もうとするようにひっかきながら、所在なく歩き回った。
そしてふと思いつき、先ほど行った方とは逆の縁に駆けた。
そこから下を見ると、巨大な光の熱球があった。太陽だ。ギラギラと凶器のように輝く太陽が、僕より下にあった。
僕は塔に入る直前のことを思い出した。あの時、僕は一旦空を仰いだのだった。
しかし、乳白色の霧がその姿を覆い隠してしまっていた……。
もしかしたら、あの時に理解出来ていたのかもしれない。
僕は塔を上ると同時に、この世界を下降していたのだ。
宇宙から遠のき、地球へ近づいていたのだ。虚構を離れ、現実に向かって戻っていたのだ……。
嗚呼、しかしこんなところで表現技法を駆使したって仕方がない。
事実は一つしかないのだ。塔は天上から、まるで一本筋の通った植物の根のように張り出していた。
塔が逆さであること自体に、それほど大きな意味は無いのかもしれない。
しかし、僕にとっては大きな衝撃だった。僕には逆さまの塔を組み立てた覚えが無い。
ましてや、上るたびに現実世界、いつもの世界へ近づいていく塔など、地獄のようなものだ。
それとも、塔は最初、このような姿ではなかったのだろうか。
背反とも言える僕の心境変化に失望して、その姿を逆さに置き換えたのではないだろうか……。
127 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 00:58:33.05 ID:/GIGAitFP
- 空にのばした手を下ろした。そのまましゃがみ込み、地面を掴もうとする。
粉っぽさを失った大理石のような、ツルツルとした感触。
掴み所なんてあるはずもなく、僕は踏ん張ることも出来ない。
僕自身もまた、逆さまであると言うことに気付いてしまった以上、
いずれ僕は正常な物理法則の下に、夢の塔から棄てられてしまうだろう。
そうして、現実世界へと落ちていかなければならない。
僕は声をあげて泣いた。
駄々っ子のように手足をばたつかせ、玩具屋の幼児のようにあらん限りの声で塔に訴えた。
今や僕の孤独を認めてくれるのは、この赤い塔と、そこに刻まれるデレの呟きしかないのだ。
僕は僕自身が他者を見捨てたように、他者から見捨てられてしまうことを、何よりも怖れていた。
だが次の瞬間、僕は脱力感にも似た心地よさを感じて、ふわりと浮き上がった。
その時、走馬燈のような過去の映像が一気に脳裏へ去来した。
くるくる廻り、そして剥がれるようにして欠落していく過去、夢、世界。
そしてそのまま急加速に乗って街の方角、つまり上空、つまり真下へと、僕は真っ逆さまに墜落していった。
まったく予想もしていなかった。夢の墓場は、最終的に僕さえも葬り去ってしまうだなんて。
この塔は僕の塔ではなかったのか。僕さえも失う夢の墓場は、では一体誰の持ち物なのだろう?
そんなことを考えている間にも僕は現実に向かって降下していく。
僕の身体を拒絶し、切り刻むような向かい風、防衛本能をフルに発動し、遮断される意識……。
128 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 01:03:47.14 ID:/GIGAitFP
- ---35---
『閉じる』
……雨の音が聞こえる。随分懐かしい音だ。その音に促され、僕は覚醒した。
気を失っていたくせに、僕は直立不動の姿勢で佇んでいた。
目を開いてすぐには、そこが何処なのか分からなかった。
薄暗い場所だった。目の前に灰色のドアがある。
左右には奥へと連なる廊下があり、振り返ると霧雨模様の外界が見える。
どうやらアパートかマンションであるようだ。
そして、徐々に回復した記憶によると、見覚えのある景色でもある。
首を動かすのさえ億劫に感じつつ、僕はのろのろと表札を見上げた。
デレの苗字だ。
そうだ、ここはデレの家だ。都会に出てきた彼女が借りている、大学からほど近いマンションである。
僕も何度か訪れたことがある。賃料の安さの割には、綺麗な外観をしていたことを思い出す。
それにしても、落ちた先がデレの家とは一体どういうわけだろう。
いくらなんでも都合がよすぎやしないだろうか。
いや、最早考えるのはよそう。
僕の頭が現実にも理想にも追いつかないことは、もう十分に分かったことだ。
それよりも今は、デレの家に来られたことを喜ぶべきだ。
そう、僕は再びここへ帰り着くことが出来た……。
129 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 01:08:18.31 ID:/GIGAitFP
- 震える手で呼び鈴を鳴らす。そのまま十数秒待つが、返事は無い。
もう一度押してみるが、結果は同様だった。
僕はドアノブに手をかけた。
冷静でいるつもりだったが、そうすることに何の躊躇いも、罪悪感も覚えなかった。
むしろ、そうしなければならないような自己脅迫さえ感じられたのだ。
彼女に会いたかった。彼女に会って、様々なことを訊いたり、話したりしたかった。
ドアを開ける。案の定、鍵はかかっていなかった。中は電気が点いておらず、薄暗い。
洗い物が積まれた小さな台所が左側にあり、右側のドアは確か、トイレとバス・ルームに続いているはずだ。
そして奥のドアを開ければ、さほど広くない、しかし独り暮らしには十分なスペースである部屋が一つある。
全体がひっそりとした静けさに包まれていた。後ろ手に静かにドアを閉め、
靴を脱いで玄関に上がるとその衝撃で、積み重ねられた食器がガチャリと物騒な音を立てた。
僕は遠慮がちに彼女の名前を呼んだ。
その名前を実際に口にするのは、どれぐらいぶりだろう。
ややあって、返事がかえってきた。くたびれてはいるが、はっきりとした彼女の声だ。
奥の部屋から聞こえてくる。僕の表情は、思わず笑顔にほころんだ。
その瞬間、僕にははっきりと『関係』が感じられたのだ。僕はもう孤独じゃない、もう孤独じゃない!
そう思うと、自分の身なりなどが気にかかり始めた。
先ほど階段を駆け上ったせいか、服装全体がしわくちゃになっている。
132 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 01:13:28.33 ID:/GIGAitFP
- 奥の扉の方へ世間話のような、柔らかい会話を投げかけながら、僕は慌ててそれを整え始めた。
久々の彼女への再会に、くたびれた外見というのも情けない。
お世辞にも滑らかとは言えない僕の饒舌に、彼女はただからからと笑うばかりだった。
思えば、彼女はいつもそんな風だった。どんなにつまらない話も、こんな風に笑って聞いてくれていた。
ああ、まさかまた、こんな日々が戻ってくるなんて。
僕は本当に悪いことをした。許されるようなことでもないのに、しかし彼女は許してくれたようだ。
こんなにも幸せなことがあるだろうか。あっていいのだろうか。
言わなければいけないことはたくさんある。宗教のこと。僕の心境変化のこと。
それに、トソンのことだって、やっぱり彼女には話しておくべきだろう。
それらを消費するだけでも、随分時間がかかりそうだぞ。
そう思うだけで、何とも形容しがたい嬉しさがこみ上げてくる。
さあ、ようやく服装を整えた、彼女にお目見えしよう。
僕はひときわ高いはしゃぎ声を出しながら奥の扉を開いた。
目の前に、首を吊った死体がぶら下がっている。
133 :
◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 01:17:33.83 ID:/GIGAitFP
- 僕の表情は笑顔のままで凍り付いた。
長い髪の毛を垂らし、だらしなく舌を出して、剥いた眼で僕を見下ろしているのは間違いなくデレだった。
彼女はすでに息をしていない。首に巻き付けられた帯のようなものは、天井に向かってまっすぐ伸びている。
彼女が刻んだ、最後の呟きを思い出した。『さようなら』。
それが生命との決別を示唆していることぐらい、容易に推測できたはずなのに、
僕には欠片ほどの予兆も感じられなかったのだ。
彼女が死ぬなんて、少しも思っていなかったのだ。
死にたい、死にたいと、口癖のように呟き、生き長らえていたから尚更……。
しかし、トソンは言っていた。
トソンが高三になった年の夏、母親であるデレは衝動的な首吊り自殺を達成すると。
何のことは無い、その期日が早まっただけなのだ。
それにしても、僕は彼女のことを何も考えられていなかった。
トソンの時と同じじゃないか、結局、僕自身何も悟れないまま、成長できないまま、誰も彼も消えてしまった。
僕の最終的な喪失は、塔の外側で待っていた。
最早デレと言葉を交わし、呟きの真実を探ることも出来ない。
僕はデレと同時に、最後の手がかりをも失ってしまったのである。
ぶら下がっている彼女の死体に歩み寄り、僕はその足もとに跪いた。
人間は簡単に成長できないし、同じ事を繰り返す。その事実があまりにも辛かった。
きっと、それはいつまでも同じなのだ。
ほんの一瞬分かったつもりになって過去を謝罪しても、次の未来では同じように誤る。
それを繰り返し、繰り返し、一度の正解を見ることもなく、やがて死ぬ。
それこそが普遍的な人間の姿であり、僕らがどうしようもなく矮小に見える理由でもある気がした。
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◆FeIP505OJ. :2010/05/22(土) 01:24:51.87 ID:/GIGAitFP
- 背後の扉が勝手に閉じた。もう二度と開かないという確信が湧いた。
この閉じられてしまった一室で、僕の旅は終わる。最も惨めで、罪悪に塗れた終末を、
僕は唯一有り余るほど残されている時間の中、ゆっくり噛みしめることになるのだろう。
そうして、もしも何かの結論が得られたとしても最早誰にも話せず、
最終的には自分の中で結論を壊し、心臓さえも壊してしまう。脈動が止まるとき、僕の傍には誰もいない。
項垂れた僕の視界の端で、何かが動いたような気がした。
死体だ。デレの死体がゆっくりと首に手を回し、きつく結びつけられた帯を解きにかかっている。
ほどなくして作業を終え、死体は床の上に降り立った。
そして僕の前まで歩み寄ると、中腰になって僕を抱きしめた。
死体の腕は驚くほど硬く、冷たかった。
髪の毛に覆われ、首を後ろへ回った彼女の表情を、僕は見遣ることが出来ない。彼女は僕を嗤っているだろうか。
僕は目を閉じた。
閉じられた部屋で冷たい腕の中、僕は世界で最も虚しい孤独に抱きしめられている。
誰にも認められず、死亡証明さえ手渡されず、ビルの影に覆われたちっぽけな僕自身の影のように、
永遠のごとく長い時間と現実を、ただひたすらに塗り潰されて……。
( ^ω^)『夢の墓場』のようです 終わり。
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